明治時代の葬儀

江戸時代は士農工商という身分制度が支配しており、葬儀の奢侈(ぜいたく)化を嫌う行政権力から身分ごとの葬儀基準が示され、葬儀の簡素化が奨励されていました。明治に入り、この身分制度が取り払われることによって特に都市において大きな変化を招きます。

その第1は、日中に葬儀が行われるようになったことです。それ以前は夜になってひっそりと葬儀が組まれていたのですが、台頭した商人層を中心に日中に見せびらかすかのような葬列が登場してきます。

第2は寝棺および輿の登場です。江戸時代には座棺でしたが、富裕層では葬列の肥大化と共に寝棺が使われ、白木であつらえた輿に入れ大人数で運ぶようになりました。そしてこれが財力の象徴と受け取られるようになります。今でも東京、関西で白木の宮型霊柩車が上等とされるのはここに起因します。他方庶民は座棺が中心で、籠あるいは神輿型の黄金色に飾られた人力車で運んだりしました。

第3はさまざまな葬具の出現です。葬列を彩るために野道具と言われた葬具が立派になっていきます。金蓮、銀蓮、生花や造花を挿して車仕立てにした花車、鳩を放つ放鳥もこの頃出現したものです。鳩を運ぶ放鳥興、位牌を運ぶ位牌興、香炉を運ぶ香炉興なども出てきます。近代的な葬具の歴史の始まりと言ってよいでしょう。こうした葬具の提供で、専業化が進み、葬儀社の前身である貸葬具を業とする葬具屋が出現するところとなります。

第4は、粗供養の大型化です。葬儀となる地域の人に食事を振る舞うという習慣は、江戸時代から行われていました。また、葬列の出発の際に花籠のバラ菓子や小銭を入れ近隣の人に振る舞い供養としたなども既にみられたことで、粗供養の起源と思われます。葬儀が大型化すると、会葬者全てに対して菓子包み、饅頭、弁当を配るという今日の粗供養(会葬返礼品)の原型ができてきます。喪家側も不足すると恥ずかしいと大量に準備するようになりました。(「喪家」は、古くは「ソウカ」と読みました。関西では「モケ」、関東では「葬家」とも書き「ソウケ」と読みます。)

第5は、人夫の出現です。大きな葬列を演出するには多くの葬具運搬人や多数の参列者が必要となります。20人くらいから中には千人を超える人夫が動員されたとの記録があります。こうした葬祭業者は葬列用の衣装を揃え、また貸衣装も行ったと言われます。

葬列、葬具が大きく立派になるのは、都市においては富裕層から次第に一般庶民に影響するところとなっていきます。葬列の肥大化は明治20年くらいから10年間をピークとしており、明治30年代になると逆に葬儀の奢侈(しゃし)化が盛んに非難を浴びるようになってきます。葬儀における貧富格差が明確になると共に、地方との違いもまた大きかったのがこの時代の葬儀でした。

葬儀を業とする者の出現は江戸時代に遡ります。江戸時代の後期には、座棺(桶)を制作する、桶屋と呼ばれた業者の存在が見られます。しかし本格的な出現は明治時代に入ってからで、参列の人夫の手配業、葬具の制作、貸出業という形で始まります。葬祭業者の起源は大きく4つに分類されます。

①棺、葬具製作から転じたもの(カンヤ、ガンヤ、オケヤなどと呼ばれました)

②造花製作から転じたもの(ハナヤなどと呼ばれました)

③葬列の手配から転じたもの(カゴヤ、ソウレンヤなどと呼ばれました)

④食品業から転じたもの(葬儀の食料品の調達から葬具の貸し出しも行うようになったもので、八百屋、乾物屋などから転じたものです)

第二次世界大戦前の葬祭業者は葬儀の運営までを担うことはほとんどなく、葬具の制作・貸し出しを中心とした「葬具提供業」でした。

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